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去りゆく一切は
いちいちヘコんでたら、いちにちヘコんでなきゃいけないだろ
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ところで電通のこと(7)
(6)のつづき。
 
 テレビ番組は広告主の提供で成り立っている。番組制作費は広告主がまかなうのだから、広告主が番組のことを知りたがるのは当然である。広告主としては自社CMをより多くの視聴者にみてもらいたいので、どの番組がどれだけの人びとから見られているのか、具体的に知りたい。また、テレビ局だって自分達の番組がどのくらい人気があるか目安が欲しいところだ。テレビが広告媒体として確固たる地位を確立すると、そのニーズはますます強くなった。
 
 こうして1962年(昭和37年)、視聴率調査会社ビデオリサーチが誕生する。前年、アメリカの視聴率調査会社ニールセン社が日本で視聴率調査を開始していたが、ビデオリサーチ社はそのシェアを奪い、現在では日本の視聴率調査を独占している。
 
 そして、このビデオリサーチという会社、実は電通の傍系会社なのである。電通と民放が出資して作ったとされるビデオリサーチ社だが、社長や取締役といった主要ポストには電通出身者が名を連ねている。視聴率はやがて番組の評価そのものになり、テレビ関係者が金科玉条のように振り回すに至るわけだが、ここでも電通の影が見え隠れしているわけだ。
 
 つまり、民放の雛型を作ったのが電通なら、テレビの収入源たる広告枠の大部分を押さえているのも電通、そして、番組の評価(=視聴率)を調べているのも電通なのである。これで“力”を持たぬわけがない。電通が尊敬と妬みの意味をこめて “築地編成局” だの “築地CIA” などと呼ばれる所以がここにある。
 
“築地編成局”:テレビ番組の編成は電通が仕切っているという意味。
“築地CIA”:日本の情報は電通が握っているという意味。
なお、築地は電通の所在地。
 
 
※テレビについて余談をひとつ。
 
 民放ラジオの発足で奮闘したのは電通の吉田秀雄さんですが、民放テレビの普及に尽力したのは吉田さんではなく、読売の正力松太郎さんでした。当初、電通は、テレビはまだ一般に普及しておらず時期尚早だといって二の足を踏んでいたそうです。
 
 テレビはビジネスとして時期尚早。
 
 日本にもこんな時代があったというのですから驚きですね。
 
つづく。
 
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ところで電通のこと(6)
(5)のつづき。
 
 広告代理店は狩猟民族であるといわれる。その世界では、先に狩猟場を探し当てた者の勝ちであり、先に狩猟の方法を見つけた者の勝ち、そして、先に結果を出した者の勝ちということになる。とにかく先んじているに越したことはない。
 
 電通が日本の民間放送の立ち上げに関わったことは前回触れた通りだが、電通はこのことによって、ラジオ放送という新しい広告ビジネスで他の広告代理店より優位に立った。そして、この優位性はそのままテレビ放送に持ち込まれることになる。やがてテレビは広告の主力(昭和50年に広告費が4208億円となり、新聞を抜いて最大の広告媒体に成長する)となり、いつしか広告業界は、「電通を頂点とするガリバー型寡占構造」へと変貌していくのである。
 

参考資料1 電通の売上高
 
昭和23年  10億2661万円
昭和24年  25億6940万円
昭和25年  37億7128万円
昭和26年  49億7528万円
昭和27年  83億2131万円
昭和28年 118億2905万円
昭和29年 131億9345万円
昭和30年 146億8866万円
 
※ 民放ラジオがはじまった昭和27年を機に、売上が倍増していることがわかる


参考資料2 総広告費に対する電通の広告占拠率
 
昭和26年 19.7%
昭和27年 16.2%
昭和28年 24.0%
昭和29年 24.0%
昭和30年 24.1%
昭和31年 23.9%
昭和32年 24.4%
昭和33年 29.2%

※民放テレビがはじまった昭和28年以後、占有率が24%代に跳ね上がっている


 参考資料2をご覧頂いてわかる通り、民放テレビの登場で電通は総広告の24%、つまり全広告の約1/4を1社で牛耳っていたことになる。
 
 田原総一郎氏が『電通』を著した頃、すなわち昭和50年代(テレビが現在のような、“ながら見”ではなく、もっとお茶の間で力を発揮していた時代)に目を向けてみるといよいよ恐ろしいことになっており、昭和54年の電通の売上高は5605億2000万円。昭和55年12月における在京テレビ局のゴールデンタイム(19時~23時)の総時間、28時間のうち、電通が関与していない時間帯はTBSが3時間半、NTVが2時間半、フジテレビが3時間、テレビ朝日が5時間となっており、全体でいえば1割程度の時間ということになる。逆にいえば、東京のゴールデンタイムの9割は電通が握っていたわけで、まことに見事な寡占ぶりといえよう。
 
つづく。
 
ところで電通のこと(5)
(4)のつづき
 
 昭和20年(1945年)、政府は「日本放送協会(現NHK)のほかに、新放送会社の設立を認可する」と発表した。お国の放送機関が電波を独占するのはよろしくないということで、要は、日本の旧体制を解体しこの国を民主国家にせんとするGHQの意向によるものだ。
 
 しかし、民間のラジオ局を開局するにあたってそのビジネスモデルが問題となった。聴取者からは料金を取らず、すべて広告だけで運営する(要するに現在の“民放”)というものだが、当時はこれが理解されていなかった。いや、正確には、理屈としては理解できるが本当に実現できるか皆、半信半疑だった、というのが実情だろう。
 
 そこで、白羽の矢が立ったというべきか、自ら名乗り出たというべきか、この舞台に颯爽と現れたのが例の吉田秀雄で、吉田は6年を費やし民放ラジオの立ち上げに成功する。昭和26年(1951年)、ラジオ東京や文化放送など16社の民放ラジオに放送の予備免許が与えられた。初期の放送で電通は広告主の斡旋やCM作成だけでなく、番組の企画や収録まで手伝っていたそうで、ある営業企画局次長は当時をこう振り返っている。
 
「番組を企画するばかりか作ることも、民放の発足当時は電通がやったんです。それを裏付けているのが、最初に開局した中部日本放送の記念番組で、私たちが作った番組がかなりの数を占めていたことです。 (中略) 番組を作るということ自体、広告業の本来の機能ではなかったのに、当時はそれをやっていたんです。」(塩沢茂『電通のイベント戦略』)
 
 つまり、電通は日本における民放の“雛型”をつくった会社ともいえるわけで、このことは、電通と放送局の繋がりを考える上で、知っておいて損することはないと思う。電通が日本の既存メディアに対し、絶対的な“力”を持っているといわれる所以の1つである。
 
つづく。
 
ところで電通のこと(4)
(3)のつづき
 
 大戦間近の情報統制によって電通の通信部門が頓挫したことは以前に触れたが、昭和16年、日本が開戦に踏み切ると、程なくして広告部門も窮地に立たされることになった。物資不足と情報統制で新聞・雑誌のページ数が減ったのである。例えばそれは、「昭和十二年には、朝夕刊十六ページを発行していた新聞が、十六年十月にはわずか六ページとなり、十九年には二ページとなってしまっている」(田原総一郎『電通』)といった具合で、当然それにあわせて広告スペースも激減した。
 
 広告代理店はわずかに残された広告欄を奪い合い、完全な飽和状態に陥っていたのである。
 
 そんな折、広告界は2つの改革によって転換期を迎える。1つは「広告料金の準公定価格導入」であり、もう1つは「広告代理店の統廃合」である。
 
 広告料金に規定価格を設けることによって、従来のどんぶり勘定や、「飲ませる、抱かせる、つかませる」といった“たかり”体質から脱却し、取引きの健全化を図る。そして全国に186社あった広告代理店を12社に統合し、広告業界をスリム化する、というのがこの改革の要旨だが、実はこのとき商工省の裏で手配りをしていたのが吉田秀雄だったというのである。田原総一郎の『電通』を読んだ限り、吉田がどこまで商工省に食い入っていたのかはっきりしないが、ともかくこの時期、吉田が、電通と広告業界が沈没しないよう、あちこち奔走していたことは確かなようだ。
 
 こうして長く苦しい戦争が終わり、時勢はラジオ・テレビ時代に突入する。電通、飛躍のときである。
 
つづく。
 
ところで電通のこと(3)
(2)のつづき。
 
 話が前後するが、昭和3年(1928年)、東京帝国大学経済学部を卒業した1人の若者が電通の門をたたき、営業部に配属された。
 
 若者の第一志望は新聞記者になることだったが、当時の名だたる新聞社の面接試験ではすべて惨敗。このあと名の通った企業を手当たり次第に受けるが、ここでも落ちに落ちて、結局、「社名さえ知らなかった会社、電通」に引っ掛かったのである。
 
 失意の中、社会人となった彼は、のちに当時の広告ビジネスをこう振り返っている。
 「最初、体格検査の通知を受けた時に、これはえらい会社だと思ったが、四月二日の入社日に出てみて、更にこれはとんでもない会社だ、いよいよ中に入ってみて、それこそ本当にこれはとんでもない会社だということになった。というのは、当時は広告取引きというものが、本当のビジネスになっていない。実業じゃないのだ。ゆすり、たかり、はったり、泣き落としだ。わずかにそれを会社という企業形態でやっているだけで、まともな人間や地道な者にはやれなかった仕事なんだ」(電通入社二十五周年回顧座談会)
 
 当時の広告業界に失望し、軽蔑していたこの若者こそ、のちの電通4代社長――電通を世界一の広告企業に押し上げ、それまで広告主と広告媒体の隙間に巣食う賤業でしかなかった広告ビジネスを“情報”の寵児に仕立て上げた人物――吉田秀雄、その人である。
 
 「鬼十則」(もう電通内でも死語になっているらしいが…)などで知られる吉田秀雄については、書店で検索してもらえばすぐに詳しい書籍が見つかるはずなので、そちらに譲るとして、ともかく電通は吉田を迎え、劇的な発展を遂げることになる。
 
つづく。
 


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